毎日自己満足

読んだ本や見た映画等の感想、日々個人的に考えた事なんかを書いていきます

小説『ボラード病』

この小説、本屋でたまたま見掛けて吸いとられるように手にとって購入したので事前にどんな内容かは全く把握していませんでした。

 

ただ、裏表紙のあらすじを読んで、ディストピアと書かれていたのでディストピアなんだろうなぁと。あとはコズミックホラーな話かな、と最初は勘違いた。

 

ディストピア、という言葉を聞くと人間がIDで管理、監視され、トレイにのった栄養食と錠剤で生き、密告や拷問、洗脳に満ち溢れた世界というイメージが多分大半の人間にはあると思う。

 

でもこの『ボラード病』はひと味違うディストピアを読者に体験させる。あくまでも現実の延長線上としてのディストピアだ。

作品はとある女性の回想の形式で書かれていて、時折現在の時間軸に戻る。

描かれている風景自体は平穏なものなのに、どうしてか不穏なものを感じさせる。読み進めてもその不穏の正体が明らかにならない。だからその正体を知りたくて、さらに読み進めることになる。

 

本には一気に読んだ方がいいものと、小分けに読んだ方がいいものがあると思うが、これは明らかに前者。というか一旦引き込まれるともう止まらない。

人間は未知を恐怖し、その正体を見極めて安心しようとする。そういう人間の心理が働いて活字を追うスピードが上がるのかもしれない。

 

同調圧力全体主義と一言にしてしまえば安っぽくなる嫌な雰囲気や何かに心酔し、すがる人間の醜悪な感じがかなりよく描かれていて素晴らしい。

 

人間は信じたいことを信じ、それを真実だと思い込む能力を持っている。そして、それが過ちであると知っていても思い込むことをやめない。世界とは主観的なものなのだと読んでいる人間に刻み込んでくるような作品でした。

 

背筋をぞわぞわさせながら、本を読むのが好きな人におすすめです。

 

 

漫画『シグルイ』

日本特有の戦士階級である「侍」「武士」というものは、その特異性から様々な作品のテーマになることが多い。

義理人情、忠誠心、明確な形で現代まで残る卓越した剣技の一端(西洋では殆ど散逸している)

これらが現代の日本人の心も熱くするのはやはり道徳観念の根底に武士道手的な考え方が残っているからだろう。他国では厳格な宗教が担っていた役割を武士道的な考え方が受け持っていたという説もある。


だが、武士の世はそんな綺麗事、美しい事ばかりでは無いと描いたのがこの漫画『シグルイ』だ。

原作は小説『駿河城御前試合』。十一の御前試合を描いた短編集で、『シグルイ』の原作はその内の『無明逆流れ』

タイトルは「葉隠」という武士のあるべき姿を書いた本の一節、「武士道は死狂いなり」からとったもの。



舞台は太平の江戸時代。駿府城で将軍の親族である徳川忠長の前で行われた御前試合で、2人の剣士が向かい合うところから物語は始まる。

この2人は普通の剣士では無く一人は隻腕、一人は足が不自由な上に盲目。

この特異な2人の剣士、藤木源之助と伊良子清玄の間には並々ならない因縁があった。彼等は元々同じ流派【虎眼流】の兄弟弟子だったのだ。

物語は彼らが出会い、そしていかにして敵対する事になったのかを追っていく形で展開する。

愛憎が入り交じった人物の心情描写も剣客同士の立ち会いも、すべてが一級。

絵も美麗としか言えない、内臓すら鮮やか。


とにかく全ての巻に見所があり、どこか一カ所をピックアップするのは難しい。ただ一貫して言えるのは凄まじい武士の世界を描いたものだと言うことだ。

・常軌を逸する鍛錬
・目上の者に言われれば何があってもそれを成す
・体面や誇りを守るためなら他人の命を奪うことを躊躇わず、己の命も捨てる
・相手を斬るために途轍もない殺意を漲らせる


これらの凄まじい世界を高い画力で余すところなく描いた作品だと言える。

侍や武士をテーマにしたものは多いがある意味で美化されたものや少年漫画的に描写されたものが多い中、独特の気配を放つ名作なので是非読んで欲しい。





映画『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

お久しぶりです

自分は終末モノ、所謂ポストアポカリプスが好きなのですが中々時間が取れずこのマッドマックスの最新作を見ることが出来ずにいました。

「ポストアポカリプス作品の代表であるマッドマックスの最新作を見ていないのにポストアポカリプス好きを名乗っている」という状況は「スポーツ漫画が好きなのにスラムダンクを読んでない」とか「ゲーム好きなのにドラクエやFFやポケモンをした事が無い」と言う状況に近い。

つまりとても気まずい状況でした
なのでようやく見れて良かったと思います。

前置きは此処まで。


マッドマックス怒りのデス・ロードはマッドマックスシリーズの四作品目。
二作品目からの方向転換を受け乾き切った荒野を舞台にしたポストアポカリプスモノです。

主演はメルギブソンでは無くトムハーディ。主演変更は一抹の不安もあったが魅せられる演技で良かったと思う。メルギブソンは年齢的にはキツかったのかな?

シナリオはイモータンジョーと言うマスク(防塵?防毒?)をした男が牛耳る砦にマックスが囚われる所から始まる。
このイモータンジョーと言う男は水を牛耳り、人々をまとめあげ、更に美人の嫁さんが何人も居るというムカつく野郎だ。

攫われたマックスは輸血をしないと生きる事が出来ないウォーボーイズと言う連中の内の一人ニュークスの血液袋として車にくくり付けられ、裏切り者であるフュリオサの追跡に同行(強制)するが大砂嵐にあって自由になる

その後フュリオサ達となんだかんだ合流して彼女達の目指すフュリオサの故郷に向かう、と言うのがシナリオの大きな流れだ。



マッドマックスシリーズの系譜を受け継ぐだけあってカーアクションが素晴らしい。元々第一作から制作費の殆どを車両の改造代にあてたり、暴走族を撮影に使ったり、カーアクションに拘りのある作品で、その流れを四作品目も引き継いでいる様に思える。

何台ものモンスターマシンが荒野を砂嵐を上げながら疾走する様は見応えがある。


あとジョーは嫁が全員美人で羨ましいという感想を抱いた。世紀末には細マッチョや線の細いイケメンなんか流行らない。強くてムカつく奴をバンバンぶち殺しまくる奴がモテるのは当然なのだろう

女の人のタフさも良い。勝手に窮地に陥って救われる事を望む少年漫画ヒロインとか「戦いの無い世の中を…」とか言っちゃうヘンテコ時代考証時代劇ヒロインが嫌いな自分としてはああいうタブで魅力的な御姉様方は最高でした



あとまじめな感想としては状況や背景の説明が丁度良く足りない感じが非常にグッド

SFやファンタジーで説明口調の人間を出して、世界観や小道具を読者に向かって説明するという小技はよほど上手くやらないと陳腐だったり作り物っぽくなってしまうから、そういうのが無くて良かった。(「これは何ですか?」「ああ、これは新聞と言って文字と写真によって分かりやすく最近起きた出来事なんかを知らせる為のものなんですよ」「へぇ、それはすごい!遠くの出来事もこれで知れる訳ですね」なんていう会話は現実ではあり得ない)

小道具や出てくる人々なんかの背景が分かるんだけど少し分からないという感じが素晴らしかったと思う

色々書いたが映像とストーリーの盛り上がりが共に素晴らしく見る価値のある映画だった






漫画『おやすみプンプン』考察

おやすみプンプンと言う漫画は僕が今までに読んできたどんな漫画とも違うタイプの漫画だった。

読む前に知っていたのはオチに立腹した人間がたくさん居るって事だけ。曰く「結局何にもなってない」「意味不明。平凡な幸せを手に入れたってこと?」「大風呂敷広げただけでオチつけられなかった典型」…

ただ自分で読んでみるとそんな風に立腹するのは筋違いなんじゃ無いかと思った。

凄く真剣に考察したいと思うので何回かに分かれてしまうかもしれない。


まず考えたいのは主人公プンプンの姿について。
この漫画を読んだ人間がまず驚くであろう要素は主人公プンプンの姿。他の登場人物や背景が非常に綿密に書き込まれていて上手な絵なのに主人公と主人公の家族だけはデフォルメ化された小学生の書いたヒヨコの落書きの様な姿をしている。
これは何を意味し、何を効果として狙っているのか。

考えて思いついた事を羅列する
①描写を多少なりともマイルドにするため
②読み手が感情移入しやすいように
③顔によって本当に伝えたいことがぼやけてしまわないように
④異常性の証明

まず①について。この漫画は結構きつくて、暴力的なシーンだったり官能的なシーンだったりで生々しい描写が多いのだが、そんな中でもプンプンやその家族はデフォルメ化された描写のまま。
これらのシーンで痛みに怯える顔やリアルな傷跡を描写していたらメッセージよりもそちらに注目が行ってしまう。

これは③にも言える事だけど、どんな作者でも全くのメッセージ性も無く作品を作ることは出来ない。何故なら何のメッセージ性を持たせずに作品を作る方がよほど高度で神業で難しい事だから。


金の為に陳腐な話を書いてる~とか
それっぽい雰囲気を醸し出して深読みさせてる~
とか言う批判を作品に対してする人がたまに居るけど陳腐な話を書くには当然陳腐なメッセージ、テーマを込めてるし
それっぽい雰囲気を醸し出す為にそれっぽいテーマを使って作者は作品を作っている。

というかテーマや伝えたいことが何も無いのにお金を取れる作品を作れる天才はもうこんなに物が溢れて色々な考えが存在する社会には存在しないと思う。

そう言うのは一部の天才と赤ん坊の鼻歌とか無作為に手を動かして生まれた落書きとかだけ。

話を戻すと、作者は伝えたいことがあって作品を書いているのにその中継地点てある絵のどぎつさにそれが隠れてしまうのが嫌だったんじゃ無いかと思う。

家庭内でプンプンの父親と母親が喧嘩をして母親が病院送りになるシーンもデフォルメ化されたヒヨコの頭にタンコブが膨らんでいるだけ、とか。探してみればいくらでも見つかる。

あとは主人公の内面の変化で容易くデフォルメも変化するので分かりやすい。
心を閉ざしている時は正四面体になってしまったり、終盤狂気と鬱に取り憑かれた時は顔が真っ暗になって角が生えてしまったり。


次に②。この作者は画力が物凄く高くて人間の顔もめちゃくちゃ上手い。
だけどその上手すぎる画力でプンプンや他の家族の顔をリアルに描いてしまうと、メッセンジャーとして感情移入させる為のキャラクターとしては不具合が起きてしまうのだと思う。

ただ、世間ではこの作品の主人公は「どこにでも居る普通の青年」と評されているけれど僕はそれは違うと思った。
正確には「少し何かの歯車が狂ってしまえば誰でもなり得る青年」だと思う。

読者である僕たち一般人が適度にあしらい目を逸らしている心の中の暗い要素を捨てきれず向き合ってしまうIfの読者自身がプンプンだと僕は思った。
だからプンプンには明確な顔が与えられなかったのでは無いだろうか。

③は、①に近いけれど少し意味合いが違う。
この作品のメインとなっているのはヒロインの愛子とプンプンの関係性なのだが、このテーマでプンプンが美形、もしくは醜形に描かれてしまうと結局何を話すにしても、何をメッセージとして受け取るとしても「顔がね…」と言う感想を読者に与えかねない。

ノーベル文学賞候補の小説なんかを読んでるときにそれを感じる。
その日出会った女性と性行為をする程に軽妙洒脱で外面も悪くない男が死にたいだの、やれやれだの、ハッキリ言って失笑モノだ。
「そりゃ死にたいかもしんないけど少なくともセックスしてるわけでしょう。それも不器用じゃ無くてシャレオツなセックスでしょ。もっと顔も悪くて童貞で無職で母親以外の女性と話したことが無い死にたいヤツだって居るでしょ、、死にたいなら一々セックスしないで早く死ね」となってしまうのだ(?)。プンプンもセックスしてるけど①の狙いのせいかそこまで引っ掛かりは感じない。

本当にこの作者の作品に感情移入している人間って居るのだろうか、そして居たとしてソイツはとんでもない思い上がり野郎なんじゃ無いだろうか、と思う。

ノーベル文学賞候補者は文章自体もオシャレだから尚更そう捉えられやすいんじゃ無いだろうか。嫌いだから2冊くらいしか読んでないけど。思い上がりがちな青春気分の抜けてない人間に共感させる天才だとは言えると思う。



話は戻るが、そう言う恋愛に付き物な残酷な「顔」と言う要素を省くためのデフォルメキャラクターなんじゃ無いかと思った。


最後に④。これは②と一見反するように思えるけどそうでは無い。
プンプンは「誰もが成り得る」けれど「まず成らない」からだ。

不器用な性格で悪いこともしてしまうのに、かと言ってそれを開き直りきってしまう事も出来ない性質の人間
子供の頃に真っ直ぐな打算抜きの愛情(早い話が親の愛情)を感じずに成長した上
心底好きな人が居て、なおかつその人に囚われて自分自身は空っぽで、そこに唯一何か得体のしれない黒い感情を持ってしまう。それしか自分を幸せに出来ないと思い込んでしまう(あるいは思い込んでいたい)

と言うのは中々珍しい事だからだ。この内の一つや二つは当てはまる人は居るとは思うけれど全てが当てはまる事はそう無いと思う。

これらの条件の当てはまる異常者である証明がプンプンの姿の理由で、彼の家族はあくまでも副産物的に同じようなデフォルメ化された姿なのかもしれない

そして作品全体を通して何より彼は自分から普通と言うモノを切り離そうとしているようにも見える。
だからあの姿は彼の心の主観による自画像なんじゃ無いかとも思う。


異常だって事に引け目と周りに対するほんの少しの優越感を持った姿があの可愛らしいデフォルメで、だからこそそのバランスが崩れたり憎しみやもっと深い黒い感情が加わると容易く怪物のような造形に変化するのかもしれない。


あまりにも長くなりそうなので、まずはここまで。

小説『皇国の守護者』

皇国の守護者』は佐藤大輔架空戦記だ。
架空戦記と一言で言っても様々な作品があるが、この『皇国の守護者』は他の作品に比べてある意味挑戦的な作品だと思う。

高度な軍事的知識、描写を以てファンタジー的な要素が加わった限りなく現実に近い架空世界を描いているという点だ。

あまり冊数を読んでいないジャンルなので間違いが有ったら申し訳ないが架空戦記というのは実際に起きた第二次世界大戦などに現実には存在しなかった有能な指揮官だったり、未来から来た結末を知っている人間が参加し戦況を変えていく、と言うのがメジャーだと思っている。

その点においてこの作品は独特だと思った。

舞台は日本をモデルにした『皇国』
そしてその『皇国』を北から侵略せんと攻め込むロシアをモデルにした『帝国』

武器の火力は日露戦争時くらいだと思う。
だが、ここで現実とは大きく異なる要素がある。それはこの世界に特有の生き物の存在だ。

主人公の新城直衛の相棒であり、皇国の大きな戦力となっている剣牙虎(サーベルタイガー)や人語を解し空を自在に飛ぶ龍、帝国が使役するワイバーンなどがそれにあたる。

これらが荒唐無稽な存在としてでは無く、かなり現実味を帯びた運用をされているのがこの作品の良いところだ。
近年ファンタジー世界と現実の戦力が共闘、交戦する作品がちらほら目につくが大体どちらかの圧倒的な蹂躙で単に片方の陣営を持ち上げる為の材料になってしまっているモノが多い。
それらに比べるとこの作品の架空要素は架空で有りながら現実味と説得力を持った素晴らしいバランスを保っている。

個人的に思ったのは、剣牙虎の運用は戦車のそれにあたるのかな、と言う事。
随伴する歩兵で戦車の小回りの無さを埋めたり、火力で相手を崩してから突撃したりする戦法からアイディアを得ているような気がした。


世界観の説明ばかりしてしまったが、登場人物も素晴らしい。
主人公の新城直衛は低身長で凶相で、残忍で冷酷であるが実は臆病なところがある。とこう書くと良いところが無いように見えるが、臆病を押し殺し敵からも味方からも恐れられる存在であろうと努力する姿や、なるべく兵隊の無駄死にを出さないようにする姿、敵の裏をかく作戦を考え部下に実行させる姿などがとても魅力的。
単騎で敵に突っ込んで暴れまわる武将のようなキャラクターも好きなのだが(若い主人公をひたすら持ち上げる為の無双は嫌い)、こういうキャラクターも好きになった。

ヒロインの部下と敵の将軍も魅力的なキャラクターだった。この人の書く女性は全体的に魅力的だと思う。
忠実で信頼できる部下と魅力的な敵の女将軍と言うタイプの異なる二人をそれぞれ魅力的に描写している。




長々書いたが最後に唯一欠点を上げるとすれば完結していない事。一段落はついているが一読者としては早く最終巻まで読みたいと思う。

あと余談だが子供の頃に読んだ『テメレア戦記』と言うファンタジー小説を思い出した。あれも竜を使役して実在の国家が戦争すると言う作品で好きだったのを覚えている。

映画『エリジウム』

お久しぶりです。


主演はマット・デイモン。荒廃し貧しい人が住む地球と「エリジウム」と呼ばれる宇宙に浮かぶ金持ちだけが住む楽園が舞台。

この設定、結構色々な所で見るので既視感が無いわけでは無い。例えば『ACfa』(アーマードコア・フォーアンサー)と言うゲームにも「クレイドル」と呼ばれるコロニーとそれを地上へ引きずりおろそうとする「ORCA旅団」と呼ばれるテロリストの戦いが描かれていた

現実社会の問題や不満を反映しやすいテーマだからというのもあると思う。
特にアメリカ的な考えでは貧困が自己責任だから貧しい=罪な考えがどこか蔓延している。そしてお金持ちの子は才能が無くても良い教育を受けて金持ちになり、貧乏な子はいくら才能があっても教育を受けれず貧乏なまま。そうして何代かする内にその格差は計り知れないものになるという寸法だ。
この『エリジウム』や他のSF作品はその格差がやがて暴力でしか覆せない、あるいは全く覆せないまでに広がってしまった社会なのだ。






作品の内容は可も無く不可も無く、という感じ。つまらない訳では無いし適度に盛り上がるが名作というには少し足りていない気もする。

ただ小道具的な観点で見ると中々良かった。体に直接ボルトで筋力を補助するアーマーを縫いつけたり、飛行船から小型のドローンが飛び出したりするのだが、そう言うのが好きな人にはワクワクする作品だと思う。

自分は「荒くれ集団の中では比較的頭の良い奴の使う土埃を被った凄いスペックのノートパソコン」が出てくるとワクワクするのだがそのポイントがばっちり抑えられてて良かった(笑)

敵役のイカれっぷりもグッド。野望にギラついて闘いをエンジョイしちゃうヒゲ面をシャールト・コブリーが熱演。似たような作品の「第九地区」では追われる側だったなぁと思って色々面白かった

あとは監督が日本が好きな人なのかな、と思った。人工的に再現された偽物の桜吹雪が舞っていたり、敵役の使う武器がどう見ても日本刀だったり



ご飯食べながら見るのには丁度良い、適度にハラハラしてストーリーも破綻していない作品だと思いました。


映画『ランボー』

この映画は単なるアクションやバイオレンス作品では無い
この映画は時代に適応できなかった哀しい男の物語だ

映画『ランボー』は1982年にシルヴェスター・スタローン主演で公開された。

主人公のランボーベトナム戦争帰りの歴戦の兵士だ。その彼が偶然通り掛かった街でトラブルを起こしてしまい、たった一人で社会そのものと戦う羽目になってしまう、簡単に説明するとそれだけの話だ。


だがその単純なストーリーには深い悲哀が練り込まれている。

彼はずっと過酷な環境に居た。争う相手は居るし、とても快適とは言えない戦場に。
だが彼は男としての誇りを持っていた。戦友と共に敵と戦う。体には活力が漲っているし、戦友とは確かな絆が存在したからだ。


過酷な筈の環境が彼の居場所だった訳だ。

やがて戦争が終わる。彼等は戦場から故郷へそれぞれが戻る事となった。
だが長い過酷な生活が彼等を蝕んでいたり、
あるいは正常な筈の生活に適応できなかったりして、病に倒れたり精神がおかしくなったりしてしまう。

そしてランボー自身も、「正常」な世界に適応できずにいた。

そんな彼が偶然通り掛かった街にある人物が現れる。

それは街の保安官だ。彼は街を通ろうとするランボーを捕らえて手荒に扱う。

だがここで言っておきたいのは保安官は別に悪人では無いのだ。保安官は時代に適応出来ていない異物であるランボーに対して当たり前の対応(保安官としての職務)をしているだけ。

だがそれに対してランボーは過剰反応をしてしまう。過酷な環境が彼の内面をおかしくしてしまったのだ。

結果的にランボーは保安官達を殴り倒して森の中に潜伏する。そして銃を奪い迫り来る警察相手に徹底抗戦する。



やがて戦い続けるランボーの前にかつての上官が現れる。そして投降を求める。

だがランボーは投降を求める上官に対して血をしぼり出すように叫ぶ。

「俺の戦争はまだ終わっていません」と



最終的には彼は再び戦場に帰ることになる。

洋画のアクション、と言うと激しさだけだと思われがちである。

だがこの作品の見所はそこでは無い、真の見所は、かつて誇りを持ち、そして時代に置き去りにされた一人の哀しい男の悲哀と慟哭なのだ。




色々と考えさせられる作品だ。