毎日自己満足

読んだ本や見た映画等の感想、日々個人的に考えた事なんかを書いていきます

映画『3時10分、決断のとき』

西部劇と言うジャンルは今や衰退しつつある映画ジャンルだ。日本で時代劇が作られなくなっていくのと同様に外国でもアメリカの西部開拓時代をテーマにしたものは段々作られなくなっている。

 
西部劇には大まかに二つのタイプが有ると思う。一つは史実寄りで娯楽性よりも史実性を優先しているモノ。かつての西部劇は全てこのタイプで、主にアメリカで作られた「VSインディアン」の西部劇。
もう一つは砂塵の舞う荒野とタフな男、決闘、賞金首、ころころ転がる草の塊(ちなみにタンブルウィードと言う名前)etc…
そう言う小道具や男の生き様、プライド、そして馬鹿な男を見守る女性と言った所に焦点を当てたイタリア等アメリカ以外で作られた西部劇(いわゆるマカロニ・ウェスタン)の二つがある。
 
アメリカで作られた西部劇は何となく「正義臭さ」がある。それに比べてマカロニ・ウェスタンは登場人物が全員悪人(もしくは全員が普通の人間的)でお互いに喰らいあうピカレスク的な所があって堅苦しくない。
 
 
今回紹介したい「3時10分、決断のとき」と言う映画は娯楽性の強い、だが男の胸を熱くする西部劇だ。
 
主演はクリスチャン・ベールラッセル・クロウラッセル・クロウは「グラディエーター」の主演をつとめた名優で、クールな表情と熱い表情のどちらをも演じるベテランだ。
クリスチャン・ベールは「ターミネーター4」のジョン・コナー役が有名所だろうか。
 
 
ストーリーは戦争で足が上手く動かなくなった牧場主の男(クリスチャン・ベール)がひょんな事から西部に悪名を轟かせた大悪党(ラッセル・クロウ)をコンテンションと言う駅から出発する列車に乗せて処刑場へ送る為に、駅まで悪党を護送する一行に加わる所から動き始める。
確か牧場主の男には肺病の娘が居るとかで、空気の綺麗な所へ引っ越す必要がある。だけど金が無いから大悪党を護送して報酬を受け取ろうとしていたと思う。あと彼には息子が居るのたが少し舐められてる。息子は護送に同行する。
 
護送される大悪党を奪還しようと彼の部下達が次々と仲間達に襲い掛かる。この仲間が仲間と言うよりは狂信者みたいな感じで、とにかく大悪党を盲信している。
 
大悪党の仲間に脅かされながら、彼等は大悪党を連れて駅に向かうのだが、その内に牧場主と大悪党の間に奇妙な絆が生まれる。
 
この描写がこの映画のキモだと思う。つまりこう言うある意味で非理論的な「男らしさの世界・時代」においては瞬間的な敵味方と言う概念よりも尊敬できる男か、信念を持った男か、と言う事が重視されるのだろう。
確かに大悪党は殺人や強盗を犯す犯罪者では有るが、彼には独特の哲学や誇りがある。それを牧場主は旅の中で知っていく。
そして大切なものの為に身を削ってでも戦う牧場主に対しても大悪党は敬意を持つようになる(少なくとも一人前の男なのだと)。
 
やがて旅は終わりに近付き、駅に着く。だが街は既に大悪党の部下への恐怖に支配されていて、主人公達一向に賞金がかけられ、大悪党の部下だけで無く街の荒くれまで主人公達を狙うようになる。お偉いさん達も報復を恐れて大悪党を逃がしても良いんじゃ無い…?みたいな空気になる。牧場主の男的にも見逃した方が金銭的な得が多くなる。
 
 
 
以下ネタバレになってしまうかもしれない
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
だが主人公は屈しなかった。彼は最早金の為だけで無く息子に対して「誇れる自分」を見せるために決して信念を曲げない。迫る敵をぼろぼろになりながら何とか撃ち倒し、何とか大悪党を列車に乗せようとする。
だがその時に主人公を銃弾が貫く。大悪党を狂信していた部下に撃たれたのだ。
 
ここで男心を震わせるシーン。
もう何も止めるものが無くなり、逃げれる事になった筈の大悪党は誇りある男だと認めた牧場主を撃った部下を撃ち抜き、誰にも強制されず、自らの意思で列車に乗り込む。乗れば絞首刑は確実。絶対に死ぬと分かっているのに大悪党は牧場主の男気を認め、自分も誇りある道を選んだのだった…。
 
息子は恐らく親父を認めたはずだろう。足を怪我して戦争から逃げてきた臆病者だとは思わないだろう。
恐らく息子に報酬が渡され、結核の彼の子供は救われるのだと思うが、それは些末な事だろう。
 
何より誇りある男達が立場や敵味方を超えてお互いを認め合う、それがこの映画のテーマであり、視聴者が受け止めるべきメッセージだと思う。
 
仮に何か事情があって敵味方のような形になっても相手に誇りがあればそれを認める。それが格好いい男だと思わされた作品だった。
 
 
 
 
 

小説『黒い季節』

読者の方は「伝奇」と言う小説ジャンルを知っているだろうか。
詳しい説明は省略するが、個人的な解釈として「伝奇」は
・事実と異なる歴史体系に基づいている世界観を舞台にしている
もしくは
・現実社会の影に明らかにされていない面が存在していて、それが時に史実や事実とリンクした世界観を舞台にしている

自分はこれらが「伝奇」の条件なんじゃ無いかな(違ったら申し訳ない)と思っている。

今回紹介(レビュー?)したいのは冲方丁の「黒い季節」
冲方丁と言えばSFの「マルドゥック・スクランブル」や時代劇の「光圀伝」で有名だが、この「黒い季節」はそんな冲方丁がまだ若い頃(確か大学生だった頃)に書いた伝奇だ。

シナリオは様々な人間の視点が入り交じって少し難解


あるヤクザが正体不明の少年を保護するが、その少年は記憶を失っていた。何やら曰く付きっぽいがヤクザさんは思いのほか優しくて少年を保護する。
一方、とある少年が、ある「絵」を探して夜の街を徘徊している時にならず者に絡まれるが、滅法強い(その上不思議な力を使える)女性に助けられる(こういう強い女性の書き方が上手い人の本は面白い気がする)
この二組と敵役(?)の野心に溢れる若いヤクザとやはり不思議な力を使える女性。

主人公達二組はやがて交差し、また少年が探していた「絵」も物語の重要な役割を担って綺麗に終焉する。


自分は中学高校時代に小説を書こうとした事が有った。でも当時「空の境界」や「黒い季節」と言った伝奇小説にはまっていたせいでどうしても「劣化伝奇モノ」にしかならないと言うことがあった。
重厚な世界観と魅力的な複数のキャラクター、最低でもこの二つを備えなければならない伝奇小説はとても書くのが難しいのだと思う。

だからこそ、この作品を大学生の頃に完成させた冲方丁は凄まじい小説家だと思う。

小説『ニードフルシングス』

『ニードフルシングス』は映画化した事もあるスティーヴン・キングの執筆したホラー小説だ。

題名のニードフルシングスは「めっちゃ欲しいモノ」(たぶん)的な意味の店の名前。主人公達の住む町キャッスルロック(この町はしばしばキングの小説の舞台になる。スタンドバイミーとか)に、このニードフルシングスと言う中古品店がオープンする所から始まる。

この店の店主はゴーントと言う老人で、彼は町の住人達が心から求める品物を格安で提供する。だけどその代わりにゴーントは客にちょっとした「いたずら」を町の他の住人にさせる。

「いたずら」は一つ一つを見れば大した事の無い小さな事なのだが(少なくとも後に起きる大惨劇に比べれば)それらが連鎖反応してとんでもない事に成るという話。

ゴーントの提供する品物は客の欲望を強烈に刺激するモノばかり。例えばプロ野球選手のカードが欲しいブライアン少年には「偶然」【ブライアンへ】とサインの入った野球カードを売る。これは日本のコレクション趣味を持ってる人だったらコロッと騙されちゃったりしそうな気がする(笑)
アイドルや人気俳優のサイン入りの写真みたいなものかな?感覚的には。

あと職場の金を競馬につぎ込んでしまう男には競馬の勝ち馬が分かる占い盤を売るのだが、これは読んでて凄く欲しかった。

他にもエルヴィス・プレスリーの写真やギター、とても性能の良くて見栄えも良い釣り竿なんかを売りつけていく。

そしてゴーントの言うがままに「いたずら」を町人達がやり続けたり結果、少しずつ町が物騒になっていく…主人公の保安官はこれを何とかしようと奔走する。


後半は凄まじい内容だがキングの作品の中ではラストが胸糞悪くない方。ちなみにキングの作品で胸糞悪い話が読みたいなら同じキャッスルロックを舞台にした『クージョ』がオススメ。


あと個人的な見解としてこの小説をどう読むかで性格が分かる気がする。人々を唆すゴーント側から右往左往する人々を見てニヤニヤするのか、それとも翻弄される人々に感情移入してハラハラするのか…どちらにしてもとても楽しめると思う。



あとあまり関係ないが若い頃の柴咲コウ藤原竜也が出演し社会現象となった『バトルロワイヤル』の生徒達が通っていた【岩城学園】の由来はキングが度々舞台にする、このキャッスルロックの町が由来になっている。

キングは別名義で「死のロングウォーク」と言うデスゲームの元祖とも言える小説を書いていて、近年の作家のデスゲーム的な小説(ハンガーゲームやバトルロワイヤル、漫画だとBTOOOM!等)のお約束を作った名作なのでそちらも機会があったら読んで見てはどうだろうか。







小説『ライ麦畑でつかまえて』

ライ麦畑でつかまえて」はサリンジャーの代表的な作品の一つだ。
自分はサリンジャーと言う作家を親父が読んでいるのを見て知っていたのだけれど高校生になるまで読んだことが無かった。

ただ、当時熱心に視聴していた「攻殻機動隊」の中に重要な役割を担って、この「ライ麦畑でつかまえて」が登場し、折角だからと思って購入して、以来何度も何度も読んでいる。

作品の内容はホールデンと言う青年が成績不良や周りと折り合いがつか無いのを原因に、大学を退学するのだが家にすぐに帰ることも出来ず、フラフラと放浪するという話。最終的には家に戻るのだが、あくまで話のメインは放浪している間にホールデン青年が語る様々な価値観。


まず一つ言っておきたいのは学生生活が充実している、もしくはしたいこと、目指す場所がハッキリしている人間ではこの「ライ麦畑でつかまえて」は百パーセントは楽しめないであろうと言う事。
逆に何かやり切れない思いだとか、人付き合いに疲れを感じたりだとか、正体不明の焦燥感があるような人は百パーセント以上楽しめると思う。


ホールデン青年は社会的には落伍者だ。だが彼は自身の中に強力な価値観を持っている。自身が満たされない、至らない人間だと自覚しているからこそ独特の正義感を持っている。
だから満たされた人間や普通の人間が「そう言うモノ」だと自然に受け入れる欺瞞が許せない。
思ってもいない様な事を人間関係を円滑にする為に言うのも欺瞞(ホールデン青年はこれを作中で「いんちき」と呼ぶ)だし、同級生の様々な態度や言動(悪ぶったり他人をコケにしたりするモノ)も「いんちき」。
彼にとって世界は「いんちき」だらけな訳だ。

そして彼は子供や純粋なモノに対して無償の愛を持っている。金魚を自分のお金で買ったから誰にも見せたくないと言う子供の話に対しても好感を寄せているし(「まいったね」と彼は言う)妹のファービーに対してとても純粋な愛情を向けている。
これは子供には大人のように何かを誤魔化したり思っても無い事を偽って喋ったりする欺瞞が存在しないからだろう。

他に独特の価値観を表すポイントとして、彼は妹の通う学校の壁に「Fuck you」と落書きされているのを見て激怒して落書きを消しまくったりする。ホールデン青年は大人に対して反抗的で、浅く考えれば真っ先にそう言う落書きを書きそうなモノだが、そうではないのだ。
子供が見たらどう思うんだ、と真剣に考える、そう言う人間だ。

本の終盤で、彼は妹にライ麦畑の捕まえ役になりたいと語る。

ライ麦畑の捕まえ役とは、子ども達がライ麦畑で遊んでいる時に、畑の端にある崖から下に落ちないように子供を見張っておいて、危なくなったら捕まえておくと言う役割の事だ。

欺瞞が溢れる世界から自分を切り離し「喋れず耳も聞こえない人のふりをして生きたい」と願う一方で、社会的な成功や凄い人間になりたいと願わず、子供達を崖(恐らくは大人の欺瞞の比喩)から守る人間になりたいと言う。

純粋なモノ(彼自身は既に汚されている)は汚されてはならないと言うのが、ホールデンの正義感であり、哲学なのだろう。

結局、ホールデン青年の放浪は三日で終わる。悪ぶろうと色々とやろうとするがどれも気が乗らず(あるいは上手くいかず)、肺炎になりかけたり精神的にまいってしまい、家に妹の顔だけ見に帰るのだが、そこで小さな妹に彼は精神的に救済される。

そして精神病院に入れられる。この話自体、彼が精神病院の中で「君」に話している話という設定だ。

だから全編を通してホールデン青年の少し荒っぽい口調で展開するのだがそれもまた味があって凄く良い。



この小説は読む者にホールデン青年と同様に社会の欺瞞に対する怒りや違和感を持たせる力があると思う。






映画『レオン』

『レオン』と言う映画をご存じだろうか。多分見たことが無くても名前は知ってると言う人が多いと思う。

シナリオを簡単に要約すると
マチルダと言うと家族を皆殺しにされた上に麻薬を裏で売って私腹を肥やす悪徳警官に口封じとして命を狙われる不遇な少女をレオンと言う孤独な殺し屋が保護し、交流を重ねる

要約してしまうと本当にこれだけなのだが、『レオン』と言う映画には重厚感があった。

まず演技力がハンパじゃ無い。
ジャンレノと言うと映画を見ない人にとっては「ああ、自動車のCMのドラえもんでしょ?」くらいなものだと思うけど(偏見)、『レオン』や彼が登場する映画『クリムゾンリバー』を見ればその演技力に引き寄せられると思う。何となく純粋なイメージがあるのは目が綺麗だからかな?と思う。
そして何と言っても主演女優のナタリー・ポートマン。彼女はこの作品で銀幕にデビューした訳だが、当時の彼女はまだティーンエイジ。多分13歳か14歳だと思うが、その年齢でこの演技力を発揮すると言うのは何か天性の才を持っているのだと思う。
あと悪徳警官のゲイリーオールドマンが凄まじかった。凄みがあった。怖いイケメンは本当に怖いんだな、と。
彼は麻薬捜査官のクセに麻薬を裏で流していて、マフィアと癒着している。そして部下をレオンに殺され、レオンを狙うと同時に自分が殺した麻薬の運び屋(マチルダのお父さん)の家族を皆殺しにしようとマチルダの命も狙っている。


レオンとマチルダの関わりあいはお互いがお互いを大切に思ってる事が伝わってきてとても微笑ましい。
彼らは決して理想的な人間では無い。マチルダは年の割にませてて口が悪いし煙草を吸うし、レオンは仕事として人を殺してお金を貰っている。だけどそう言う不完全な人間がお互いを思いやるからこそ映画として深みがあるのだと思った。



あとこう言う「強い存在」と「守られ、愛される存在」と言う組み合わせはあらゆる創作物に見られると思うけど(漫画「ベルセルク」のガッツと妖精パックや魔術師シールケ、恋人のキャスカだったり、ゲーム「ザ・ラストオブアス」のジョエルとエリー等々…)、この『レオン』は殺し屋であるレオンが人を愛したり好意を受け止める事に不器用なのに対して、少女であるマチルダは大胆でレオンをドキッとさせたりする。
生きていくと言う点ではレオンの方が強いが、人を愛したり素直な好意を向けると言う点ではマチルダの方が強い。
だからレオンとマチルダのどちらもが「強い存在」であり、「守られ、愛される存在」なのだと思う。だから普通の映画の2倍深みがあるんじゃ無いかな。




全体的には何となく哀しい雰囲気が有ったと思う。主題歌がしっとりとしたギターと深みのある男声のボーカルで映画を見た後の余韻を大事にしたい人におすすめ。よく映画を見終わった後に「さてこれで終わりだネ。さっさとDVDしまって仕事に戻ろ」だとか「この後ランチだからこんなとこにいられない。さっさと映画館出よう」だとか余韻を自らぶち壊す人達が居るが、それはとても勿体ないと思う。

映画を見終わった後に、流れるエンドロールを眺め、今見た映画に思いを馳せながら主題歌を聴き、深い溜息をつく。

この理屈だとか道理の上では全く無駄な工程を踏む事で映画は2倍にも3倍にも楽しめると思う。
そう言う点で主題歌「シェイプオブマイハート」は本当に名曲だと思う。自分は英語が出来ないので歌詞は何となくトランプに何か例えてる歌だとしか分からないが、哀しげな曲の感じがレオンやマチルダの記憶を呼び起こして凄く深い満足感を得る事が出来るのだ。
以下はネタバレになってしまうかも










とにかく心に残って脳内でずっと反芻されるのはレオンがマチルダを明確に愛して、地に足をつけて暮らしたい(殺し屋をやめる)と願い、あと少しでそれが叶うと言うシーン。 

マチルダとレオンが暮らすマンションへ警察の特殊部隊が雪崩れ込んで来て、マチルダを先に逃がしたレオンは絶望的な数の特殊部隊を相手に戦い、ぼろぼろになりながら一足先に逃げたマチルダの待つ待ち合わせ場所へ向かおうとする。暗くて何となくジメッとして戦場と化したマンションの入口は明るい光を暗闇に投げかけていて、それがレオンの人生を暗示している事は容易に想像できる。暗い殺し屋としての人生からマチルダと共に生きる光の世界へ、と言う事だろう。

だが、あと一歩で外と言う時に背後にゲイリー・オールドマン演じる悪徳警官が現れる。彼は光へ何とか向かおうとするレオンの後頭部を撃ち抜く。
レオンは光の下へ出ること無く暗闇に倒れる。だが最後の力を振り絞って彼はマチルダをも狙う悪徳警官スタンフィールドを巻き込んで自爆。
結局彼はマチルダを光の世界へ返し、自分は光の世界へ行くこと無く死んでしまうのだった。
最後のシーンは、マチルダがレオンが大切にしていた鉢植えの植物(レオンは自分を鉢植えの植物と同じだと言っていた。根無し草だと)を鉢から出して彼女の通う学校の地面に植えると言う映像。
死んでしまったレオンの代わりにせめてと、根無しの草を大地に植えてあげるシーンはマチルダが彼を大切に思っている事を表すと同時に彼女が無事に日常へ帰還した事を象徴しているのでは無いかな、と思った。

決してハッピーエンドとは言えないが、観た者に満足感を与える、『レオン』と言う作品は間違いなく名作だった。







このブログ?について

こんにちは(^ー^)
毎日毎日やることが無く(あるんだけど取り掛かるのが嫌で先送りにしている…;;)本を読んだり映画を見て過ごしているのですが、せっかく見ているのに誰に話すでも無いので何か形に出来たらと思ってこう言うブログ?を書いていこうと考えました

好きな作品ばかりになりそうですが、そこは許してください